記事分類:雑記

2012年4月3日

佐賀一郎

  あれかこれかの問いを永遠とおけば、

  目指す答えにたどり着くかどうかは問題でなくなり、

  行為そのものが答えになりかわる。

生き死には、地平線、無限遠。

  生死、即、無限小。

  流転、変転、好転、暗転。

  会場が開場。

  会場を施錠。

  暗幕に剣幕。

あれかこれか。

  選択肢を増やそうが、複数回答可能にしようが、

  そうした組織だった設問設定が持ち得る影響力は、

  その輪郭のなんと小さなこと、

  てんで問題にならない。

あれかこれかの合わせ鏡。

  凸面鏡に凹面鏡。

  脈絡のありやなしや。

  その諸相、位相、異相。

  意識、無意識の区別は言うまでもなく、

  前後不覚のこともあり、

  いずれあとさきなく、

  つまるところ自由自在である。

遠近法の、存在と不在の併在である。

  振り向くとすぐに手が届きそうな綾織物である。

  継起する契機である。

  契機する継起である。

  網膜上のマニエリスムである。

  網膜状のロマンチシズムである。

  あれかこれかへの問いかけである。

    あれかこれか……自体の歯応えである。

    問いへの問い……概念の歯応えである。

  無限を思うことである。

  矛盾を思うことである。

  無限と矛盾を媒介に、

    自分を患い、自分に憩うのである。

    自分に憩い、自分を患うのである。

詩文のようなものに仮託してなお、

  分割の点を分割された世界の双方に置くとする、

  かの数学的見解に納得できるか。

  世界を二分し、自分を二分する。

  いずれにも自分を置く。

  それで自尊の念が発生するか。

減らない自分である。

  痕跡として残され続ける自分である。

  おちこちの自分、十重二十重の波形。

  ロマンチシズムである。

  マニエリスムである。

  心である。

  感情移入である。

契機、その心は、無限遠、無限小の継起。

継起、その心は、無限遠、無限小の契機。

  オートマティックである。

  あれかこれかである。

  自分である。